黄ふくろう日記

大好きな事なら超続けられる…でも大好きな事は毎日入れ替わるよ♪

蕨とアンチョビのマッチングがグッド

 午前中、出先での用事を済ませた後、以前からチェックしていた、大阪・能勢町にあるピザ屋さん「グリージョ・エ・アオ(grigio e ago)」に行ってきました。

 お店の場所は、国道173号から兵庫県道602号に入って、しばらく道なりに進んだところにあります。何の気なく走っていると見過ごしてしまうので、入り口に置かれているイタリアの国旗を目印にするとよいでしょう。

 店内に入ると、古民家を改装したレストランになっています。カウンター席とテーブル席がありますが、一人で来たのでカウンター席に座らせてもらいます。

 メニューを受け取って眺めていると、マルゲリータ、マリナーラといった定番ピザの下に、「蕨(わらび)のピッツァ」(1500円)という一品がありました。「わらび? 蕨のピザなんて食べたことないなぁ。これは珍しい、ぜひ試してみよう」ということで、すかさずオーダーしました。

 数分ほど待っているとピザが焼き上がります。そして、まさに焼き上がってすぐの状態で店員さんが運んできてくれます。うほぉ、こいつは美味しそうですなぁ~!


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 食べてみると、アンチョビの塩気が結構、強いんですね。しかし、塩っ辛いわけではない。おそらく蕨のねっとりとした食感がその塩気をうまく包み込み、全体としてアンチョビの塩気とトマトソースの酸味がいいバランスで保たれているからだと思われます。ニンニクの風味も良いアクセントになっています。

 目の前にピザが運ばれてきて、あっという間に食べてしまいました。美味しかった!


<場所>
グリージョ・エ・アオ(grigio e ao)
大阪府豊能郡能勢町山田33-1



スマホ世代が作る言葉の響きの新鮮さ

 5月9日に発売されるアンジュルムの新曲「泣けないぜ…共感詐欺」のMVが公開されました。

 ちらっとタイトルだけ見たとき、「ん? 警察の振り込め詐欺かなんかのキャンペーンとタイアップした楽曲なのかな? アンジュルム、そういう仕事もするのか~」なんて妙に感心していたんですけど、全然そうじゃないですね。完全に早とちりでした、スイマセン。


 それでさっそく聴いてみると、個の強さやこだわりなんかをテーマにしつつ、要するに「同調圧力には屈しないぜ!」という骨っぽいメッセージを存分にアピールした楽曲ですね。とくに女性の場合、仲間内での同調圧力が人間関係を保つ上で結構、面倒くさいという話をよく聞きます。この楽曲はまさに、そういう上辺だけで共感しあう付き合い方に日々、虫唾が走っている人を主人公として取り上げています。

 書いたのは、山崎あおいという若手のミュージシャンです。最近、こういう若手のミュージシャンが作った楽曲の歌詞は、本当にスピード感があるというか、場面の転換や心象風景の切り取り方がスパッと鋭いし、そのつなぎ方も素早くて巧みです。

 普段、使っているメディアの性質に理由を求めるのは安直かもしれないけれど、やっぱりスマホ世代の言語感覚は、それ以前のメディアを使っている世代とは大分、違っているように感じますし、旧世代の感覚にはない新鮮な響きがありますね。言葉の並べ方の自由度がすごく上がっているように思います。あるいは、譜割りの技術が向上していると見るべきなのかもしれません。いずれにしてもそれは、言葉と音楽の関係における進化であって喜ばしいことです。

 一方、音楽的な部分に注目すると、アレンジはハロプロではおなじみ、平田祥一郎さんが担当されておりまして、さすがいつも素晴らしいクオリティーだと拍手喝采なんですけど、なんか面白くないんですよね。なんだろう、メロディーラインが古臭く感じるからかなぁ。

 いや、とてもよくできているんですけどね、よくできているんだけども、とくにBメロからサビにかけて、手堅く作りすぎているような気がする。何を言っているんだ、それでいいんだよ、アンジュルムは王道のJ-POPを目指すんだということであれば、「あぁ、そういうことなら了解です」という感じなんだけれども、前回のシングル「マナーモード」も手堅い作りだったので、もう少し冒険してみてもいいのではという印象を持ちました。

 苦言をひとつだけ。「全米 感動 号泣」はイメージの連鎖が簡単ですけど、「全然 颯爽 蒼穹」はイメージの連鎖が難しい。こういう「辞書を引いてきました」感を覚えさせる言葉の並べ方は、聴き手のテンションを下げてしまうのでやめた方がいいと思います。

 


ビールとの相性バツグン

フラ印マウイチップス_ハワイアンサワークリーム味











 いやぁ、これ、好きなんですよねぇ。フラ印の「マウイチップス ハワイアンサワークリーム味」。以前、近所のディスカウトショップ「やまや」で見つけて、試しで一度、買ってみたところ、「やめられない、とまらない」状態になり、あっという間に一袋、食べきってしまいました。

 その後、「やまや」に行くと買うようにしていたんですけど、これねぇ、しょっちゅう食べるとすぐに太ります。やっぱりカロリーが高いようで、調子に乗って連日、食べるとなんだか身体がぷくぷくしてきますね。

 食感としては「堅揚げポテト」に近いです。味付けは、同じサワークリーム味を出しているプリングルスよりも薄い印象ですが、酸味とクリーミーさが素晴らしいバランスで、本当にいくらでも食べられるんじゃないかという錯覚を覚えさせるほどです(あぶない、あぶない)。

 ちょっと調べてみると、このマウイチップス、実は終戦後、ハワイでポテトチップスの作り方を学んだ濱田音四郎氏が製造・販売を手掛けたもので、いわば日本のポテトチップスの元祖に位置づけられる商品です。

 しかも今日、日本で広くポテトチップスが愛されるようになったのは、濱田氏がその製法の普及に努めたからであり、その意味で濱田氏は、日本のポテトチップスの生みの親というべき人物であります。

 他社の製品に比べて、この商品は少し値段が高いんですけど、食べたことがないという人はぜひ試してみてほしいなぁ。とくにビールとの相性はバツグンなので、暑い時期には買いそろえておきたい一品です。




「ええじゃないか」精神?


 う~ん、あんまりよく知らないんだけど、「#Me Too」キャンペーンでは男性が女性に混じって、一緒にプラカードを掲げるっていうのはよくあることなんでしょうか。海外メディアを見る限り、女性が中心になって展開しているキャンペーンであり、男性が輪のなかにいることはあまりないように思うんだけど…。

 あと、男性が「#Me Too」のプラカードを掲げるということは、「私もセクハラ被害を受けている」ということを意味していると思うんだけど、ここでプラカードを掲げている男性たちはそういうことを女性と同じ立場で訴えるつもりなんでしょうか。

 それとも、まさかとは思うが、深く考えることなく、その場のノリや雰囲気でプラカードを掲げているのかしら。あるいは最近、話題になっているワードなので、どさくさ紛れの「ええじゃないか」精神で、とりあえずプラカードを掲げて目立っちゃえということなのかしら。

 もしそういうことなら、セクハラ被害を真剣に訴えている女性をダシにするような行為は、断じて許されないと思うんですよね。

 それっていわば、セカンド・セクハラっていうか、なんというのか分かりませんけど、要するに二次被害みたいなもんで、ミソもクソも一緒くたにして政治に利用するのはキャンペーンの本気さに疑問を抱かせることになり、セクハラ被害で本当に苦しんだり悩んだりしている女性たちへの同情や義憤が薄れてしまいます。

 真面目にキャンペーンしている人たちにとって、それこそがもっとも恐れるべき事態であって、ちゃんと線引きをしないと、世間から完全に色物扱いされてしまいますよ。

 あと、どうでもいいことだけど、今回の件で記者会見に出ていたテレビ朝日の人、「アウトレイジ ビヨンド」の冒頭で役所のなかでヤクザに恫喝された挙句、殺された官僚の人に似ていますね。




自己保身と商業主義が生み出す「タブー」

川端幹人_タブーの正体














 「報道しない自由」という言葉がネット界隈で使われるようになって、どのくらい経つのでしょうか。既存メディアの報道内容をこまめにチェックしているわけではないけれど、たしかに特定の立場や意見ばかり取り上げて、その立場や意見を批判するコメントや事実について報じないことが近年、多くなっているという印象があります。

 そう言うと、昔のメディアはもっと偏向していたし、事実誤認どころか、わざと嘘の情報を流して世論を誘導しようというメディアも少なくなかったと反論されるかもしれません。

 しかし、いまやインターネットの普及によって、そういう手口はすぐにばれるわけです。だとすれば、ジャーナリズムの使命として一層、真実に近づいて、ごまかしの利かない報道を実践すべきだろうし、昔と同じように偏向を続けているならば、そこには時代状況に応じた進歩のかけらもないと言わざるを得ないでしょう。

 この本は、そうしたメディアの「報道しない自由」を「タブー」と表現し、彼らがなぜ特定の立場や意見ばかりを取り上げ、別のものについて無視するのかという点に関して構造的な視点から分析しています。タブーを扱ったものといえば、暴露話のオンパレードかと思いきや、著者には失礼かもしれませんが、意外と真面目に書かれていて結構、読みごたえがありました。

 著者によると、メディアのタブーは暴力、権力、経済の恐怖によって生み出されるとしています。

 メディアは本来、真実の追求によってそれらの恐怖と対決し、克服することが使命です。しかし、現実には圧力団体の暴力が恐い、国家権力に睨まれるのが恐い、広告の引き上げが恐いといったことで、メディアはそうした恐怖に屈従し、その結果、あの話題は差し障りがあるから触れないでおこう、でもこの話題は差し障りがないから積極的に取り上げようという取捨選択がなされているわけです。

 そこにジャーナリズムの使命として、国民世論に伝えるべき価値があるかどうかという判断の基準はありません。もっぱら自己保身と商業主義によるものであり、民主主義の健全さを保つ担い手としての矜持はまるで見当たりません。

 じゃあ、どうすればいいのか。著者はあくまでもジャーナリストの使命にもとづいて、真実を追求し続ける姿勢が大切だと述べていますが、やや精神論にすぎるような気がします。

 むしろ、ジャーナリズムが商業主義に毒されているならば、資本の論理を徹底し、メディアに関する規制をどんどん取り払って、メディア間の競争を促した方がいいのではないかと思います。「毒を食らわば皿まで」というやつですね。そして既存メディア以外からの参入も認め、メディアごとに立場や主張を明らかにし、そのなかで自由な言論を保障すれば、あとは国民の良識に委ねるべきでしょう。

 いや、そんなことでは国民に必要な情報が伝えられないと反駁するメディアがあるでしょうけど、いくら偉そうなことを言ったって所詮、自己保身と商業主義が情報の取捨選択に関わる判断基準なんですから、どうということはない。案外、自由競争の行きつく先にこそ、ジャーナリズムの使命感がよみがえる地平が拓けているかもしれません。




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