黄ふくろう日記

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音楽

「渡辺美里」というアーティストを考えてみたい

 先日、渡辺美里の「青空」について少し触れましたが、これまで渡辺美里というアーティストに関して、きちんと論じたものがなかったように思うんですね。

 もちろん、キャリア30年以上にわたるベテランであり、今もなお、現役のアーティストとして楽曲発表やライブなど、精力的に活躍しています。また、色々なミュージシャンがそのパフォーマンスの素晴らしさを称賛しています。とくにその歌唱力の高さは誰もが認めるところで、それが端的に表れているのは、渡辺美里の「君が代」独唱でしょう。

 「君が代」は、日本の国歌でありながら知る人ぞ知る、難易度の高い歌です。ブレスをどこで入れるのか、長音で構成されたメロディーラインのどこに抑揚を付けるのか、出だしと終わりの余韻をどのように演出するかなど、シンプルな楽曲であるだけに、歌い手の力量がこれほど問われるものはありません。

 以下の動画は、2011年のキリンカップサッカー「日本対チェコ」の試合に先駆けて行なわれた、渡辺美里の国家独唱です。


 

 出だしからしてフラフラせずに、メロディーラインをしっかりと受け止めるようにして入り、その安定した歌唱を維持しつつ、無理に個性を出そうとせず、余計な抑揚をつけることなく、そのメロディーラインを淡々と辿りながら、国歌として湛えるべき威厳を保って歌い終わるという、まさに国歌独唱にふさわしい歌唱を披露しています。

 しかし、ヴォーカリスト(歌うたい)としてこだわってきた楽曲のクオリティー、そこに込めたメッセージや主張など、もっと音楽的な部分に目を向けて、彼女の創作活動について真面目に、きちんと批判も含めて、考察したものがほとんどないように思うんですね。

 個人的な印象として、渡辺美里というアーティストはもっと評価されるべきだと思っています。しかし、それがファンの目線として贔屓目になってしまったら面白くないでしょう。できるだけ客観的・中立的な視点を守りつつ、渡辺美里というアーティストについて考えてみたいんですよね。

 ただ、ファンクラブに入っているわけではないですし、ライブに参加してパンフレットを毎回、手に入れているわけでもないので、資料的な制約があることはやむを得ません。できることならチェックしたいところだけど、こればかりはいい機会に恵まれないと難しいでしょうからね。

 そのため、どこまで踏み込めるかは分かりませんが、とりあえず断片的に考えるところから始めて、いずれそれらをまとめるように持っていきたいなと思っています。ただ、あくまでも趣味的なことですから、不定期に進めるつもりです。


誰かを愛するということの尊さ

 生まれて初めて買ったアルバムは、渡辺美里の「ribbon」でした。当時、友人たちの多くはBOØWYファンで、その楽曲の素晴らしさを繰り返しアピールされたことが今もなお、遠い記憶として残っていますが、お金を払って聴こうと思ったのは、渡辺美里の楽曲だったわけです。

 この世には、過小評価を受けていると言わざるを得ないアーティストがたくさんいます。その典型として、他の追随を許さないほどの圧倒的な歌唱力を持ちながら、天性のサービス精神が災いして、なんとなく軽く見られがちな玉置浩二がいますね。

 もし東京オリンピックの閉会式を玉置浩二に託したら、それはもう全世界の女性をメロメロにして腰砕けにするくらい素晴らしいショーを披露してくれるに違いないと個人的には確信していますが、そういう声が一向に挙がってこないのは、彼が不当に過小評価されているからにほかなりません。

 同様に、渡辺美里もそういうアーティストの一人だと思います。女性のロック・アーティストが皆無に等しい状況のなか、足掛かりをつかむために、ミス・セブンティーンコンテストに出場したことが所詮、アイドルくずれと見なされてしまい、それが一体どれほど彼女のプライドを傷つけたことか。

 しかし、そのプライドは決してガラスのように脆いものではなく、創作活動に直接、関わることで優れた楽曲を世に送り出し、しっかりと裏打ちされることになったわけです。

 渡辺美里を代表する楽曲といえば、多くの人は「My Revolution」を挙げるでしょう。しかし、個人的には「青空」を強く推したい。壮大かつ雄大なバックトラックを受けて描かれる世界は、誰かを愛するということの尊さにほかなりません。その普遍性をこれほどまでに美しく表現した楽曲を知りません。


 

 「流れ星 消えぬ間に あなたのため 願いを込めて」 このいじらしいほど切ない、愛する人の幸せを祈る気持ちをいったい誰が否定することができるというのでしょうか。「情熱もただ微熱さ あなたがいなければ」 この打ち消しようのない愛する人への思いを誰が笑うことができるというのでしょうか。

 こんなにも美しい楽曲は、ついぞ聴いたことがありません。聴けば聴くほど、聴き手の心のなかにある純粋なものを呼び起こし、その純粋なものに、聴き手は突き動かされることになります。それはいわば、聴き手自身の内なる心との対話を促すという深遠なフィロソフィーを喚起し、あらゆるものを包括する愛のかたちとして、そのあり方を問わずにはいられないわけです。

 この楽曲に限らず、渡辺美里というアーティストは優れた表現者としてもっと評価されるべきだし、評価すべきアーティストだと思います。圧倒的な歌唱力を持つことは誰もが認めるところですが、アーティストとしての評価を一層、高めたいと、微力ながら強く訴えたいと思う次第です。


ファミコン音楽に学ぶ価値あり



 YouTubeを見ていると、以前のヒット曲をファミコン風にアレンジしたものが投稿されていたりするんですけど、なるほど、こういうフリー音源のソフトを使って作っているんですね。

 まぁ、専門家というかプロのミュージシャンから見れば、そんなものは大分、昔からあったよと言いたいところでしょう。実際、さまざまなソフトが出回っているようで、その気になれば小一時間ですぐ楽曲が作れちゃうスグレモノもあるみたいです。

 ファミコン世代としては、やっぱりファミコンの音色はどこかノスタルジーを感じ、不思議と愛着を覚えますね。しかもファミコン全盛期、こうした音楽を作っていたのがプロのミュージシャンではなく、多くの場合、ゲーム企業の一般社員によるものだったという事実は驚愕に値します。

 残念ながら、今まで音楽の専門学校に行ったこともなければ、音楽の専門教育を受けたこともないので、ファミコン音楽がその世界でどのように評価されているのか、まったく把握していません。ただ、そのような無名の人たちによって作られた音楽が今もなお、たくさんの人たちに愛されているのは、「音楽とは何か」ということを大いに考えさせられます。

 さらに、ファミコン音楽ではCPU容量の関係上、トラック数がきわめて限られていたわけですが、そうであったからこそ、曲の構成やアレンジにほとんど無駄がなく、音楽的な技法、たとえば対位法なんかを学ぶ上でも非常に参考になる素材が多く存在します。つまり、裏返せば、ファミコン音楽を作ることは、そうした技法を実践するレッスンになるということです。

 最近のミュージシャンは、音楽制作においてDTMを使うのが当たり前になっています。その点でファミコン音楽は打ち込みの元祖であり、それを学ぶことで音楽的な技法の基本を固めることができるのですから、DTMのバイエルといってもいいくらい十分、学ぶ価値があるように思います。




テレビ版「私の履歴書」

小田和正_時は待ってくれない














 NHK・BSプレミアムの「100年インタビュー」という番組で小田さんが出演した回についてまとめたものなんですけど、内容としては薄いですねぇ。とくに長年、ファンだった人からすれば、すでに小田さんがどこかで語っていたことをここでもまた、繰り返し語っているだけにすぎないと感じるでしょうね。

 形式としては、NHKの阿部渉アナウンサーが聞き役になって、小田さんにインタビューしているのですが、本音を探るような質問や人間性に迫るような問いかけはほとんどなく、当たり障りのない受け答えが終始、続くばかりです。阿部さん自身、小田さんのファンということで遠慮があったのか、あるいは、アーティストとしてのイメージを崩したくない小田さんの意向があったのか、定かではありませんが、正直、退屈で面白みがありません。

 これであれば、2004年、TBS系列で放送された「風のようにうたが流れていた」の方が、ずっと興味深く見ることができましたね。この番組は小田さんがホストになって、みずからの生い立ちから始まってどのような音楽生活を送ってきたのかを語るもので、小田さんの音楽的なルーツやその影響、さらに音楽に対するアプローチ、考え方などを知ることができて、実に充実した内容でした。


小田和正_風のようにうたが流れていた














 もちろん、「風のようにうたが流れていた」は1クールで1時間枠の番組だったので、その分、色々なことを盛り込める時間的な余裕があったのに対して、「100年インタビュー」は90分で1日のみの放送でしたから、内容を掘り下げるにしても制約があったことは推測できます。

 しかし、番組のコンセプトが「100年後の日本人に見てもらえる、100年後も色あせない人生観を語ってもらう」ということであれば、小田さんの人生観に深く切り込むような聞き方ができる人物をインタビュアーに起用すべきでしたね。これでは、テレビ版「私の履歴書」といった感じで、毒にも薬にもなりません。



その枯れっぷりをどのように見るか

小田和正_この道をetal












 この楽曲を聴いたとき、「枯れたなぁ…」というのが率直な感想でしたね。考えてみれば、そりゃそうだよ。だって小田さん、もう70歳を超えているんだもの。「恋は大騒ぎ」とかいつまでも歌ってられませんよね。

 問題は、その枯れっぷりをどのように見るかということです。

 一昔前、大人向けのロックとして「AOR(Adult-oriented Rock)」というカテゴリーがあって、小田さんなんかもそのカテゴリーに分類されることが多かったと思うんですけど、今回の楽曲を聴くと、いよいよ高齢者向けのロックとして「SOR(Senior-oriented Rock)」の領域に入ったのかなぁという感じがしますね。

 もちろん、ロックといっても、その捉え方は人によって違います。したがって単純に「ロック」という枠で括るのは正しくないかもしれません。ただ、実際のところ、最近の小田さんの楽曲は「フォーク」と呼ぶほど貧乏臭いわけではないし、「演歌」と呼ぶほど辛気臭いわけではない。かといって「歌謡曲」のような華やかさがあるわけではないし、「ポップス」のような色気があるわけでもない。強いて言えば、年寄りが昔を懐かしんで口ずさむ「童謡」に近い雰囲気が漂っています。

 じゃあといって、小田さんが描く歌詞の世界がひたすら枯れているかというと、そういうわけではありません。なぜなら歌詞のなかで「誇りと正義のために戦う自分がいるはず」とか「明日は必ずいい日になるから」など、これから先への前向きなメッセージが込められているからです。その点で、現状に満足しないという姿勢、このあたりが「ロック」を感じさせるところであり、あえて言うなら「SOR」的だと思うわけです。

 小田さんくらいになると、もう固定客が相当数いるので、そのアプローチが新しい鉱脈の発見につながっているのか、セールスだけでは判断しにくいところがあります。しかし今後、音楽の聴き手も世代交代が進み、都会でのサラリーマン生活を終え、老境に入る人たちが増えることを考えると、悪くないのではないかと思います。

 「SOR」的なアプローチが抱える最大のハードルは、そのアプローチが説得力を持つ年齢まで、現役のミュージシャンとして活動することができるかどうかですね。若手のミュージシャンがいくら歌っても、高齢者からの共感を得るのはやっぱり難しいでしょうからね。

 でも逆に、若手のミュージシャンからすれば、小田さんはミュージシャンの年の取り方を示してくれているわけで、その意味では大いに参考になるかもしれません。


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